-
平成の大噴火その時何が起こったのか
1990年11月から1995年2月まで続いた雲仙岳の噴火活動。38回の土石流と7回の大火砕流を中心として荒れ狂った自然のものすごさ。それを物語るのが死者41人、行方不明3人、負傷者12人、建物の被害2511件、被害額2299億4197万円という数字だ。
けれども私たちはこの数字だけに眼を奪われてはならない。この数字が意味しているのは、学ばなければならない多くの教訓、生かさなければならない多くの経験がここにはあるということだ。
そう、私たちがまず知らなくてはならないのは、平成の大噴火のはじまりからおわりまでに、いったい何が起ったのかということ。それを知ることは、すさまじい自然のパワーを知ることなんだ。そしてそれにひるむことなく復興に挑んだ人々のたくましさを知ることなんだ。
<198年ぶりの大噴火>
1万5千人を超える死者を出した、【島原大変】と呼ばれる寛政4(1792)年の大噴火以来、雲仙普賢岳は荒れ狂うことは忘れたようにおだやかな表情を続けてきた。けれどもそれから約2世紀ののち、平和な眺めとはうらはらに、地下には熱いマグマが潜んでいたことを、島原半島の人々は思い知らされることになる。
198年ぶりの大災害
平成の大噴火の移り変わり
序幕─目覚めへの足あと(1989年11月21日~1990年11月16日)
「前駆地震活動期」
- 橘湾で地震が続いて発生する(1989年11月21日)
- 島原半島西部でごく小さな地震活動(1989年12月~1990年6月)
- 山頂周辺へ震源区域拡大(1990年7月~)
噴煙を上げる普賢岳 90年(平成2年)11月17日 |
急展開─不安が島原半島を覆った(1990年11月17日~1991年5月19日)
「噴煙活動期」
- 九十九島・地獄跡両火口より噴火開始(1990年11月17日)
- 屏風岩新火口噴火開始(1991年2月12日)
- 火口で明らかなマグマ水蒸気爆発が起こる
- 山体膨張・熱消磁・火口直下地震激増・地割れ発生(1991年5月12日~1991年5月11日)
91年(平成3年)2月12日 |
91年(平成3年)3月18日 |
破局へ─誰もがそのエネルギーに目を見張った(1991年5月20日~1995年3月)
「溶岩ドーム形成期」
- 第1期/溶岩噴出開始(5月20日)、
火砕流発生開始(5月24日)、
大火砕流(6月3日、6月8日、9月15日:安中地区へ流下)、
溶岩噴出激減(1992年末) - 第2期/溶岩噴出再開(1993年2月2日)、
大火砕流(6月23日~24日:千本木地区へ流下)、
大火砕流(6月26日、7月19日:安中地区へ流下) - 第3期/中小火砕流南北両側に拡大(1994年1月~9月)
溶岩尖塔、溶岩噴出停止(1995年2月)
91年(平成3年)5月24日 |
91年(平成3年)6月3日 |
91年(平成3年)6月3日 |
数字で見る平成大噴火のスケール
2億㎥
1991年~1995年の5年間に噴出した溶岩の量
30~40万㎥
活動最盛期の一日あたり溶岩噴出量
時速200km
火砕流の流下速度(1991年9月15日)
5.5km
火砕流の最長流下距離
平成大噴火のシンボル=溶岩ドーム
溶岩ドームの変化
マグマの供給が続くと、溶岩ドームは盛り上がったり、崩れたりする。また溶岩の出口を少しづつ変えながら、溶岩体(ローブ)が積み重なって成長することもある(外成的成長)。そのために溶岩ドームのかたちはどんどん変化する。雲仙普賢岳では1991年5月20日に最初の溶岩ローブが出現し、1994年7月12日の第13溶岩ローブまでが確認されている。
噴煙を上げる普賢岳 90年(平成2年)11月17日 |
91年(平成3年)3月18日 |
91年(平成3年)5月22日 |
91年(平成3年)11月27日 |